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宇多田ヒカル「花束を君に」の歌詞に込められた意味について~神聖な気持ちにさせられる歌

宇多田ヒカルさんがことし9月28日に、およそ8年ぶりにニューアルバム「Fantome」をリリースしました。当日に買いましたがすごく良かったです!!

 

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 その三曲目に収録されている「花束を君に」について今回は考察したいと思います。

 

このアルバムの表題曲といってもよいのではないでしょうか。

NHK連続テレビ小説とと姉ちゃん」の主題歌に使用されており、ことしの紅白でも(イギリスからの中継だそうですが)歌われるそうです。あと、「クリスマスの約束」でも「Automatic」のあとに小田和正さんと歌ってましたね!!良かったなー…

 

この曲は朝ドラのために書き下ろされたものですが、さまざまな人がすでに言及しているように、母・藤圭子さんへむけた曲で間違いないでしょう。

宇多田ヒカルさんの母・藤圭子さんは、2013年8月に東京・西新宿のマンションから飛び降り自殺をしました。

精神的な病に長い間、苦しめられていたといいます。

宇多田ヒカルさんが喪主だったのですが、「遺言書がある」として葬儀は執り行わなかったそうです。独特の主義を持った方だったのでしょう。

 

普段からメイクしない君が薄化粧した朝

 

お母さんへの「手向け」の歌としてこの歌をみると、薄化粧というのはむろん死に化粧のことですね。「朝」というのが神聖な感じがしていいですね。さみしさと祈りが入り混じった思いで死者を送り出す姿が、朝のやわらかい光のイメージとともに想起されます。

 

始まりと終わりの狭間で忘れぬ約束した

 

始まりと終わりの狭間というのは、たぶん、いろいろな意味が込められているのだと思いますが、始まり=生、終わり=死と考えると、「人生」と「人生」の狭間、つまり半ばこの世・半ばあの世のような場所で、ふたりしか知らない固い約束を交わしたのでしょう。

ひとつの人生を終え、つぎの何かに生まれ変わる時の橋渡しとなるその場所は静かで、ふわふわしていて、死んだ者と・それを見送る者だけが居られる神聖な場所なんでしょう。見送った者はその約束をずっと覚えて、自分のこれからの人生でそれを守ろうとするんですね。

 

つぎはサビです。

 

花束を君に贈ろう 愛しい人 愛しい人 

どんな言葉並べても 真実にはならないから

今日は贈ろう 涙色の花束を君に

 

目がさめるほど美しいフレーズですね。

「花束」というと結婚式であったり、おめでたい行事を思い浮かべます。サビのはじめだけ聞くと、そういう歌なのかな?と思います。

しかし、つづきを聞くと、そうでもないことが分かります。

『どんな言葉並べても 真実にはならない』…

この『真実』という言葉、「死者におくる歌」で使われているという点でキーワードになってきそうですね。

「会いたい」「しゃべりたい」「ありがとう」「ごめん」…色々思うことはあるけど、いざ口に出してみると、なんだか違う言葉のような気がするのはなんでだろう?

それは、上にあげたような言葉がすべて生きている人に贈るものだからです。その人が目の前にいて、はじめて意味をもつような言葉だからです。

花束は花束でも、涙色の花束でした。透明な、もしかするとすこし青色が混じったような色でしょうか。

この涙は、さみしさ、そして祈り(あえてこう表現します)両方の感情が含まれているのでしょう。言葉にできない想いは、しばしば涙となってあらわれます。

 

ふー。

そうなんですよ、結構重い歌なんです笑

 

毎日の人知れぬ苦労や淋しみも無く ただ楽しいことばかりだったら

愛なんて知らずに済んだのにな

 

なんかグサッと来ますね。ここからは二番で、朝ドラでは使われていない部分です。

宇多田さんも苦労したもんな、なんてことをぼーっと考えてしまったりもします。

まあ、宇多田さんもお母さんへの愛含め(『道』で『you are every song』とか言っちゃってたしw)、苦労の中で今まで逢ってきた人に色んなカタチの愛を抱いたんでしょう。苦しみが深ければ深いほど、感じる愛も深いものになって、その愛から離れる苦しみも深くなるんでしょうね…

 

言いたいこと 言いたいこと 

きっと山ほどあるけど 

神様しか知らないまま

 

ここで「神様」というフレーズが出てくることからも、現実で会える人に向けての歌でないことは明らかでしょう。また、「きっと山ほどあるけど」は「言いたいことが山ほどある」ということを「きっと」という副詞であいまいなものにしているんですね。

一番のサビとリンクしていて、伝えたい思いはぐちゃぐちゃと山ほど頭の中にあるのに、いざ言葉にしようとすると違う感じがする。たぶん、真に言いたいことは、神様しか言葉にできないんでしょう。

 

両手でも抱えきれない 眩い風景の数々をありがとう

 

Cメロですね。めちゃいい歌い方です。

苦労の中にもあった、キラキラした風景を大切な思い出として覚えているんですね。

 

世界中が雨の日も 君の笑顔が僕の太陽だったよ

今は伝わらなくても 真実には変わりないさ

抱きしめてよ、たった一度 さよならの前に

 

雨、太陽と聞くと、宇多田ヒカルの15歳でのデビュー作「Automatic」を思い出します。あの曲では「rainy day」からの「sun will shine」でしたね。

世界中が…ものすごく大きな悲しみのイメージですが、「君に会うと全部フッ飛んじゃう」んですね。

「今は伝わらなくても」…せつないですね。

一番の歌詞では「真実にはならない」と歌っていますが、ここでは「真実には変わりない」と歌い上げています。

言葉にできない言いたいことを「今はもう伝わらない」ときちんと自覚したうえで、そんな状況を「でも真実には変わりないんだから」と受け止めていて、愛する人に先立たれた悲しみを断ち切った者の強さが感じられます。

 

「さよなら」というのはたんに死んだ時、ではなく見送る側からの「本当のサヨナラ」で、んーーいろんな解釈があると思いますが、私は前の歌詞から判断して、葬儀をしたときでもなく、先立たれた悲しみを何年もたった後にやっと乗り越えられて、呪縛のようなものからいざ解き放たれる!という時、が、ここでいう「さよなら」ではないかなと考えたりしています。

そこで、お互い解き放たれて、それぞれ別の第一歩を踏み出す時、もうここで本当のお別れなんだと思うと、最後に抱きしめてほしい…みたいな。

 

死者を思う時って、たしかに悲しいんですけど、なんだか神聖な気分にもなります。

それは、話せない存在に話しかけたり触ってみたり、不可能なことを超えることをしていて、しばしこの世から離れているからでしょう。

 

(17/3/6追記)

 Cメロの「両手でも抱えきれない 眩い風景の数々をありがとう」のところ、

「風景」と「ブーケ(花束)」がかかってるのかな…?とか最近思いました。