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まとも

歌や本の感想・考察など 今は宇多田ヒカル中心です

宇多田ヒカル「人魚」の歌詞に込められた意味について~透明な曲調に秘められた色彩

 宇多田ヒカルさんが2016年9月28日に、およそ8年ぶりにニューアルバム「Fantome」をリリースしました。当日に買いましたがすごく良かったです!!

 

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その五曲目に収録されている「人魚」について今回は考察したいと思います。

 

ことしの3月18日から6月18日まで、六本木の森アーツセンターギャラリーで開催される「大エルミタージュ美術館展 オールドマスター 西洋絵画の巨匠たち」のテーマソングとなる曲です。

 

全11曲あるアルバムの前半部分がこの「人魚」でおしまいとなり、真ん中六曲めの「ともだち」にバトンタッチします。

「二時間だけのバカンス」と「ともだち」、インパクトのある両曲のあいだで一旦リラックスできるような、ハープの音色が心地いい一曲です。

 

一年ほど悩んで、理想に追いつかないとあきらめかけた時にブワッと言葉で出てきたから達成感も強く、最も誇らしく思う曲。母の死後、もう音楽を作れないかもしれない、と思ってた時に、ギターを弾いていたらふと出来てしまった曲。実は「花束を君に」のPVで人の姿をして町で暮らしていた女性が突然海へ向かい、飛び込むと本来の人魚の姿に戻るシーンがあるんですけど、それがまるで演出家さんが私をなぐさめてくれているようで、見透かされてるような、あたたかく支えられてるような感覚、そして曲(「花束を君に」)を受け入れてもらえたという感覚に救われて、絵コンテを見た時涙が止まりませんでした。そこから人魚のモチーフを引き継いだ形になります

 

※引用元:宇多田ヒカル、『Fantôme』収録曲「人魚」が「大エルミタージュ美術館展」テーマソングに | Real Sound|リアルサウンド

 

上記は「人魚」について宇多田さんが答えたインタビューになります。

重いか軽いかでいえばだんぜん軽く、ふんわりとした綺麗な曲ですが、宇多田さんにとっては悩んで悩んで悩みぬいた末に舞い降りてきた曲だったのですね。

また、注目すべき点としては、「花束を君に」のPVでの「人の姿をして町で暮らしていた女性が突然海へ向かい、飛び込むと本来の人魚の姿に戻る」シーンから着想を得た、と宇多田さんは言っています。

深読みせずとも、まずはそのシーンだけで美しいですよね。このPVの女性とはまた違った人魚像ですが、アンデルセン童話にも有名な悲しくも美しい「人魚姫」という物語があります。ある事情があって「人魚」と「人」を行き来する人魚の感情の揺れ動きは、とてつもなくはかないものを感じさせます。

 

で、深読みというか、宇多田さん自身がそのシーンについて「まるで演出家さんが私をなぐさめてくれているようで、見透かされてるような、あたたかく支えられてるような感覚、そして曲(「花束を君に」)を受け入れてもらえたという感覚」と語っているので、このPVの「人魚」を自分になぞらえたのかな、と思いました。

「人の姿をして町で暮らす」という部分はまさに【人間活動中の宇多田ヒカルというイメージです。前曲「二時間だけのバカンス」でも「日常」と「非日常」が対比されていましたが、ベールを脱ぎ捨てた「本来の姿」というのは「非日常」にあるものでした。「海=自分の本来の居場所」とまで言ってしまうと行き過ぎなので、「『歌』を生業としてきた自分が今まですみかとしてきた場所」くらいにとどめて言い換えます。

その海へ飛び込むと、人魚の姿=【歌手としての宇多田ヒカル】に変わるんですね。

 

でもそれがなかなか出来なかった。もともとお母さんの驚く顔が見たくって歌をつくりはじめた宇多田ヒカルでしたが、人間活動に入って、お母さんが亡くなって、もといた海にいざ帰ってみようとしてもなかなかそれが出来なかったんですね。でも、「花束を君に」に乗せてつくられたこのPVが助けとなって、やっと自由に「人魚」と「人」、すなわち「歌手としての自分」と「人間らしく日常を生きる自分」を自由に行き来できるようになった。

 

今までのアルバムとこの「Fantome」との一番の違いは、私的にはこの「自由さ」ではないかと思っています。今までは歌手としてファンからは遠い世界に閉じこもっていた宇多田ヒカルが、こちら側にも来てくれるようになった。宇多田ヒカルとしても、母親になり、今まで欲しかった平凡な幸せを手に入れることで、その視点から再び歌手として非日常的に活動する自分を見つめ、「二時間だけのバカンス」のような二面性のある歌も生み出せるようになった。結果、いちばん宇多田ヒカルという人間の要素が出ているのではないかな…なんて思ったりします。

 

このアルバムの奇数番号の曲(「道」「花束を君に」「人魚」「真夏の通り雨」「忘却」「桜流し」)はお母さんに向けての気持ちが入った曲だと私は見ていますが、偶数番号の曲(「俺の彼女」「二時間だけのバカンス」「ともだち」「荒野の狼」「人生最高の日」)は私たちの日常でのさまざまなシーンや多様な形の愛などが宇多田ヒカルテイストで歌われています。つまり、このアルバム自体二面性のあるアルバムであり、それは宇多田ヒカル自身が二つの世界を行き来できるようになったゆえ、ということでしょう。

 

で、このようにPVのほうの「人魚」はまぎれもなく宇多田さんでよいと思いますが、曲のほうの「人魚」はお母さんの要素も入っているでしょうね。「あなたに会えそうな気がしたの」とかなんだかそれっぽくて切ないです。この曲は歌詞を逐一考察するより、全体的なイメージでとらえたいなと思いますが、「まだ…帰れぬ」は、歌手としての自分からまだ帰れないのか、お母さんの姿が見えるこの幻想的な世界からまだ出たくないのか、などなど…。なんだかいろいろ考えてしまいます。